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アリソン・バンカーのお話

Introduction
廣野ゴルフクラブや川奈・富士コースなど、超名門コースの設計家として日本では良く知られているチャールズ・アリソン (Charles Hugh Alison) だが、世界的に 彼の知名度は 意外に高くない。そんなアリソンが日本に残したものの一つに 彼が設計したゴルフコースに点在する 深くて顎が高いバンカー、所謂、アリソン・バンカーがある。ここでは そんなアリソン・バンカーに纏わるお話を少し詳しくすることにしたい。
アリソン・バンカー

チャールズ・アリソンの生い立ち

アリソン(ニックネーム "ヒュー")は 1883年 3月 英国に生まれで オックスフォード大学に進み 神学を学ぶと同時に ゴルフ と クリケットの選手として活躍したが 学校は 中退。一方、彼のキャリアは 1906年、23歳の時に ハリー・コルト (Harry Shapland Colt) とアリスター・マッケンジー (Alister MacKenzie) がその前年にパートナーシップでスタートさせたゴルフコース設計会社に入社することで始まった。コース設計の仕事を 14歳年上で コース設計のベテラン、コルトのアシスタント的なポジションでスタートしたが 数年の内には コルトの右腕的な手腕を身に付けるに至り コルトと共同経営者の関係になるまでになった。その後、コルトを中心とする アリソン、マッケンジーのグループにモリソン (John Morrison) が加わり 四人のエリートデザイナー集団となるが このグループは世界中のゴルフ場建設、改造プロジェクトを 300以上も手掛け、素晴らしいゴルフコースを造っていった。

Colt, Alison & Morrison Ltd.

実は、現在、世界ランキングトップ 3 のゴルフコース、即ち、1. パインバレー (Pine Valley Golf Club)、2. サイプレスポイント (Cypress Point Club)、3. オーガスタナショナル (Augusta National Golf Club) は 全てこのグループ(Colt, Alison & Morrison Ltd.)がゴルフコース設計の専門家として深く関与したコースである。そのコルトにゴルフコースの設計を依頼したのが 当時 東京の駒沢から埼玉県の朝霞に移転を計画していた東京ゴルフクラブだった。その時 60歳を過ぎており 海外の仕事を引き受けていなかったコルトは 高齢を理由に 自分の代わりに共同経営者で その時 47歳と脂の乗り切っていたアリソンを 1930年の 12月に 日本に送り込んだのである。そして、アリソンは 来日し わずか 3カ月の滞在で 東京ゴルフクラブの朝霞コース(現在はない)の設計を手掛けただけでなく 廣野ゴルフ倶楽部など 計 3コースを設計し、加えて、霞が関カンツリークラブ・東コース 他、改造計画を 4コースで行った。ただし、アリソンと一緒に来日したグリーンキーパーで工事現場監督の役を担ったジョージ・ペングレース (George Penglace) は アリソンが去った後も日本に残り工事遂行の指揮をとった。

アリソンとパインバレー G.C.

アリソンが日本に来る 10年以上前のことになるが 第一次大戦 (1914-1918) 前のアリソンは 英国でコルトのデザインワークをアシストしていた。戦争が始まると彼は 暗号解読のスペシャリストとして従軍。そして、終戦した 1918年以降の暫くの間をアメリカにその活動拠点を移すことになった。当時、パインバレーのコースが コルトのアドバイスを受けながら 14ホールまで ほぼ完成していた時期であったが、そのクラブの創始者で設計者でもあるジョージ・クランプ (George Arthur Crump) に 当時 35歳のアリソンは会い、残りのコース(現在の #12, #13, #14, #15)設計業務の話をアドバイザーとしてし始めた。だが、その直後、クランプが突然死去したため このコースの建造作業は 一時頓挫したが、最終的には アリソンが残りの設計業務の取り纏め役を引き受けることで 1922年にコースは完成した。

パインバレーの設計における最終的なアリソンの貢献度が どの程度であったかは諸説あり 定かでないが、アリソンは その最終ステージの設計業務で中心的な役割を演じ、貴重な経験を積んだ。パインバレーの設計の精神は ジョージ・クランプ、設計のフレームワークはコルトだと言われ、アリソンの役割に対するクレジットは微妙なものであるが、この世界一のゴルフコースの設計に深く関与した経験が その後のアリソンの仕事に大きな影響をもたらしたことは疑う余地のないものだった。

Devils Asshole
ご存知ないかも知れないが パインバレーは バンカーだらけのコースである。例えば "Hell's half acre" と呼ばれる 7番ホールのバンカーは砂浜のシーサイドコースにあるバンカーを除けば ハーフエーカー (1800m²) という大きさで 世界最大のものだし、10番ホールのバンカー "The devil's asshole" は 脱出不可能とも思える深さのポット・バンカーである。そんなコースの設計業務に 1918年 〜 1922年の完成まで アリソンは関与していた訳だから バンカーに対する造詣を深くしたのは言うまでもない。いずれにしても、この間を含め、アリソンは アメリカに 9年間滞在し 20コースの設計と多くの改造計画に携わった。彼の設計は コルト以上にバンカーの配置を中心に コースの難易度を高くするスタイルであったが それは パインバレーの経験に因るのではないかとも言われている。

アリソンが日本に残したもの

アリソン・バンカーそんな経験を積んだアリソンが来日したのは パインバレーのコースが完成して 8年後の 1930年、世界大恐慌の最中のことだったが、そのタイミングは 彼がコース設計家として 十分な経験を積んでいたと言うだけでなく、気力、体力ともに充実したピーク時だったとも言えよう。そのアリソンが設計した日本のコースに 他のコースでは見られないような多種多様なバンカーが多数、巧みに配置されたのは むしろ当然のことだが、中には 深くて顎が高いバンカーが強烈な印象を与えるスタイルで配置されたホールも造られた訳だ。そんなバンカーを日本人は 何時しかアリソン・バンカーと呼ぶようになったのである。

アリソンは 日本を去った後、クワラルンプールの Royal Selangor の改造計画を行い、さらに、モロッコ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどのプロジェクトを手掛けた。その後、第二次世界大戦に 再び 暗号解読のスペシャリストとして従軍するが、終戦後は 南アフリカのヨハネスブルグに移住し、1952年、70歳で亡くなるまでの余生も設計の仕事を続けたそうだが、その後 再び 日本を訪れることはなかったと言う。実は 彼の名前が設計者としてクレジットされるコースで最も評価の高いコースは日本の廣野ゴルフクラブ(世界 35位)である。彼は このコースが超一流の作品になるポテンシャルがあることをこの土地を見た時にすぐに見抜いており、彼の直感は 現実のものになったのだ。また、わずか 3カ月の滞在中に手掛けた もう一つのコースである 川奈ホテル・富士コースも世界のトップ 100 に名を連ねている。加えて 霞が関カンツリークラブ・東コースの改造工事で出会った 井上誠一に多大な影響を与えたことで その後の日本のゴルフコースの設計に彼の設計思想とテクニックが脈々と引き継がれていったことを知ったら 彼は 一体 何を思うのだろうか。アリソン・バンカーというゴルフ用語まで生んだ彼の功績は 日本のゴルフ史に燦然と輝き続けることになったのだから。

参考資料

• The Colt Association - Charles Hugh Alison Biographies

• The Pioneer: Hugh Alison, the sadistic sidekick (Golf Course Architecture)

• George Arthur Crump: Portrait of a Legend - by Thomas MacWood

• アリソンの来日とその設計コース (JSGCA)

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